続 - folksonomyとtaxonomy

一ヶ月位たちますが、d:id:tinsep19:20061220について。

id:q130sコメントありがとう。id:elmikaminoさんにもコメントもらってて何か書きたいとはおもっていたのだけど、ツッコムとか苦手なので、q130sのコメントに返答する形で言葉にできて本当にありがたい。

まあそうはいってもずいぶん時間経ってしまってるのですが。。。

上記のmikami さんのコメントは, 私には理解できませんでした.理由は,”ですから” 以前の主張が, 以後の主張に展開していく理由が理解できなかったため...

今度教えて下さい

あと, mikami さんと美崎薫さんとの議論もよく理解できていない. 特に美崎さんの主張が解らないっす. もし, 以下の様であれば解るんだけど.
「folxonomy そのもののあり方について議論していて, ”情報システム上にfolxonomy をどう実現するか” という点は主題ではなく副題程度である」

これで正しいとすれば, 以下の様に, 議論が噛み合ってない気がしますが, 間違ってるかしら

  • 美崎さんはfolxonomy 理想論について, 情報システム上の実装を副題として, 主張している
  • 三上さんは情報システム上の実装について現実的な解として採り得る方法を主張している

議論は噛み合ってないと私もおもいます。では何故噛み合ってないかというと、美崎さんはTaxonomyについて話していて、三上さんはFolksonomyについて話しているからです。

先に関係性という事を美崎さんは何度も仰ってますが、それは自分の認識できる範囲での話をされているとおもいます。でも、それはtaxonomyの範囲でしょう。と私はおもいます。

ではfolksonomyの範囲はというと自分の整理した範囲以外も整理される。だと思うのです。

前回引用してないところですが、

個人(リンク→タグ)→タグ付けシステム(タグ)→個人(タグ→リンク)

という風に、リンク(概念)形成はあくまで個人の営みであって、その結果としてのタグをタグ付けシステムは擬似リンクとして提供し、それを個人はあくまで個人的な営みのなかでホンモノのリンク(概念)化する。

これって個人の営みであるtaxonomyの結果がfolksonomyのリンクとして使われるということですが、folksonomy単独でみれば、(リンク->タグ)なんてしなくてもよくて、本当に思ったことを書けばいい。
たとえば「楽しかった」「悲しかった」でもいいし、たとえば「ところが」なんて助(動?)詞でもでも母数がそれなりになれば、十分つながるというところに至るのと思います。

でも、taxonomyの結果というのは、個人用の整理ツールとしても有用だし、folksonomyによるの「タグによる緩やかなグルーピング」作成にもつかわれる。

はてブの実装をみると、(比較して意味を見出すことを主眼としてないと言う意味で)folksonomy的インターフェースですが、個人用の整理ツールとしていままでつけた「タグ」が入力補完されます(taxonomy的支援)。

  • 三上さんはtaxonomyをfolksonomyへの入力の現実的な解と認めた上で、その後のfolksonomyの結果について話したがっている。
  • folksonomyへの入力システムとしてのtaxonomyツールに対して美崎さんはtaxonomy理想論から主張している

のだとおもいます。