続(2)folksonomyとtaxonomy
いままで2度取り上げている美崎さんと三上さんとのやりとりについてのつづき。
2/10に美崎さんが来社されたので、会議に同席させてもらった。美崎さんの考え方がすこしわかった気がしたので書いてみる。そしてfolksonomyとtaxonomyについてもちょっとわかった気がするのでそこもついでに。
まず僕が気づいた美崎さんの考え方について。いわゆる知(発想とか思い付き)とは美崎さんの中では整理という行為から起きるということである。
「ニュートンのりんごが落ちるのを見て重力を発見した。」に代表されるように何かのきっかけですごい閃きがおきるというような逸話は結構きく。また別のケースとして人に説明するうちに頭が整理されて新しい考えが閃くという話もよくきく。
美崎さんの場合は知が生まれる状況の割合として、たぶん後者のような状況に比率を多く置いている。
それはd:id:elmikamino:20061218のコメントからも読み取れるのだが、たぶん知が発現する瞬間とは関係性に命名する瞬間であるということではないかと思う。
それは彼のライフワークからも読み取れる。普段からカメラを持ち歩きすべてを記録する、現在は100万枚になっているそうだ(例えば、名刺交換のときは名刺と顔写真も撮影する)。それをPCにとりこみSmartCalendarをつかって日付で整理する。その他にもメール、手書きメモ、テキストこれらをすべて画像として目に触れるようにし、管理していく。
たぶんそれを定期的にか、気が向いたときか、整理しているのだろう。その中で知が発現するのだと思う。
たぶん、これは記憶の外部化とも関係が深い。頭に詰め込めない程の記憶(100万枚の写真)には外部からの刺激を瞬間的には与えられない。刺激を一度を外部記憶化して保存する、そして整理するときに再度刺激として揺り起こし、整理という行為のなかで外部記憶との関係性をあたえていく。そして、その中の一部が名前をあたえられ知として発現する。きっと外部化された記憶から生まれる知というのはこういうプロセスを経るのだろう。
さて上記はtaxonomyの話になるとおもうが、今度はfolksonomyでの知の発現について
folksonomyでは自分には未知のものに対しても他人を通じて整理がされており、未知の部分が他人に整理された瞬間には自分には知が発現しない。ではどこで知が発現するかといえばタグでつながったという結果に対して工学的に他人を理解しようとする行為ではなかろうかとおもう。
関係性に名前がつくところには深い考えがあるのだから他者のその考えを読み取ろうということである。小説から隠されたメッセージを読み取ろうとすることに近い。独自解釈として知が発現するということだ。
だから三上さんの次の行為も工学的であり、知が発現しているとおもう。
もちろん、(A)→(B)には「同じ投稿者(作者)なら似た質感のものを作るだろう」という私の期待が強く働いているし、(A)→(C)においても、小津安二郎の映画にちなんだビデオ作品に"Wim","Wenders"というタグを付けるのはある程度映画に詳しい人、つまり専門家に近い人だろうから、フォークソノミーといっても、映画に関する専門的知識としてのタクソノミーに近いものがある。
ここで知といっているのは上記の解釈をもとに三上さんが気に入った映画をみつけるための行動プランである。
しかし、ここでは同じ知という言葉をつかっているのだが、両者がおなじ事象を指しているのかどうかわたしにもわからない。無から有をつくるという言葉でかたるならば、独自解釈も関係性への命名も同じだとおもうのだが、なにかこの2つに断絶があるような気がする。
id:fuku33さんの言葉を借りるなら、folksonomyというのはd:id:fuku33:20061108:1162954278に示されるような
消費者たち(いわば消費社会)は製品を「使いこなす」知識教養を以って、製品を作り出す製造組織の側の保持する意図、知識教養とコミュニケーションを行っているのである。いわば設計情報を書き込まれた製品というメディアを使ったキャッチボールであるが、ここで問題になるのは製品に書き込まれた設計情報そのものではなく、むしろそれを察し、汲み取り、解釈する各人の豊かな教養、メタ設計情報の方であると言える。
この消費者と設計者を各ユーザーにわりあてるフレームワークこそがfolksonomyなのだろうとおもった。